サイコサスペンスのマスターピース『羊たちの沈黙』
比類なき悪役、ハンニバル・レクターはいかにして誕生したのか?
2022/01/31 公開
『羊たちの沈黙』が製作されて、はや30年以上の歳月が経つ。1991年の初公開時は異色を極めたサイコサスペンスとして、観る者の恐怖心を刺激したこの映画も、今や同ジャンルにおけるマスターピースの冠を得て殿堂入りを果たしている。史上稀に見る悪役、ハンニバル<カニバル>レクターの存在を広く世に知らしめ、この比類なきキャラクターを演じたアンソニー・ホプキンスは、一世一代の当たり役を得て名優の誉れを不動のものとした。
実在の囚人にヒントを得たハンニバル・レクターの身も凍るような人物像
殺した者の皮膚を剥ぐことから「バッファロー・ビル」の異名をとるシリアルキラーを逮捕するため、捜査責任者であるFBIのジャック・クロフォード(スコット・グレン)は、行動科学課の優秀な研究生クラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)を捜査に参加させる。
彼女の任務は殺人で収監された法医学精神科医の権威、ハンニバル・レクター博士(ホプキンス)に面会し、バッファロー・ビルにつながる情報を入手すること―。レクターの学識と殺人者としての経験は、ビルを追跡するのに極めて有益だからだ。しかし、この「蛇の道はヘビ」への歪んだ導管が、クラリスたちを後戻り不能な暗黒の世界へと追いやっていく。
犯罪小説を過半とする人気作家、トマス・ハリスの同名長編が原作の本作は、女性のFBI捜査官を主人公に置いたことに特性があった。清楚で未熟なヒロインの主役化は、過酷な状況下での成長物語として作品を牽引し、殺人や退廃といった醜悪な要素との対比となって受け手の興味を引く。
今日的な目からすれば、女性のエンパワーメントが物語を主導する嚆矢の一本と見てとれるだろう。演じるフォスターの聡明で気丈なイメージも、クラリスという魅力あふれるキャラクターの確立に貢献している。
だが、本作で最も精彩と血臭を放つのが、ハンニバル・レクターの圧倒的な存在であることは疑いようがない。博覧強記の頭脳とエレガントな紳士性、加えて非人間的な残虐さを併せ持つ、純然とした悪のカリスマである。この「監房の中のシャーロック・ホームズ」は、バッファロー・ビル以上にデンジャラスな存在として本作を掌握し、そして撹拌する。2003年にはアメリカ映画協会によって「映画史上最高の悪役」に選出されるなど、カルチャーアイコンとしてその名を知らぬ者はないだろう。
この稀代のモンスターの造形は、ジャーナリスト時代のハリスがメキシコ・ヌエボレオン州モンテレイの刑務所で出会った人物がヒントになっている。その男はハリスの取材対象だった連続殺人犯を治療していたが、彼は刑務所の医師ではなく、獄中生活を送る囚人であることを知る。
そしてハリスはその囚人にインタビューを試み、治療をした殺人犯を犯行へと駆り立てたものや、殺された犠牲者たちの傾向、ならびに犯罪の性質について高度な問答を展開したという。加えて彼の悠然とした容姿から、レクターのヒントを得たのだと『羊たちの沈黙』25周年記念出版本の序文で明かしている。
オスカー受賞も果たしたジョナサン・デミ監督の緊迫感ある演出
映画はそんな立体的で闇の深い登場人物たちの存在を、ジョナサン・デミ監督の演出が最大限に引き立てている。たとえばクラリスとレクターの対話シーンでは、お互いのバストアップを交互に切り返していく「リバース・ショット」を効果的に用い、作品全体の緊張感をゆっくりと上昇させていく。
これはデミの独創的な手法ではなく、過去にカール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』(1928年)などで確認できる古典的なものだが、その性質上、必然的に俳優の演技に比重がかかる。ゆえにフォスターやホプキンスによる優れたパフォーマンスがあって成立するものだと、監督は生前のインタビューなどで語っている(デミは2017年に死去)。
こうして傑作の条件を細心に備えた『羊たちの沈黙』は、翌年の第64回アカデミー賞で主要5部門を制覇。サイコサスペンスで作品賞を獲た映画は、1929年を起点とするオスカーの長い歴史の中で本作以外にはない。
そんな揺るぎない評価を裏打ちするかのように、『羊たちの沈黙』はレクター・サーガというべき映画シリーズへと発展。2001年には『ブレードランナー』(1982年)、『グラディエーター』(2000年)のリドリー・スコットを監督に据え、シリーズ2作目となる『ハンニバル』が誕生し、翌年にはシリーズ3作目となる『レッド・ドラゴン』(2002年)が製作された。前者はキャリアある巨匠が他人の続編を手がけ、そして後者は以前に映画化(1986年の『刑事グラハム/凍りついた欲望』)された原作に、ホプキンスをレクター役に配してリトライするという、異例づくめの展開がなされたのだ。
さらには少年期から青年期のレクターを描いた『ハンニバル・ライジング』(2007年)や、小説「レッド・ドラゴン」をベースに、レクターをさらに広いスパンで捉えたテレビシリーズ「ハンニバル」(2013~15年)、そしてバッファロー・ビル事件から1年後のクラリス・スターリングに迫った犯罪ドラマ「クラリス」(2021年~)が放送されるなど、今や本作は大幅に拡張され、堂々たるフランチャイズを形成している。
文=尾崎一男
尾崎一男●1967年生まれ。映画評論家、ライター。「フィギュア王」「チャンピオン RED」「キネマ旬報」「映画秘宝」「熱風」「映画.com」「ザ・シネマ」「シネモア」「クランクイン!」などに数多くの解説や論考を寄稿。映画史、技術系に強いリドリー・スコット第一主義者。「ドリー・尾崎」の名義でシネマ芸人ユニット[映画ガチンコ兄弟]を組み、配信プログラムやトークイベントにも出演。
<放送情報>
羊たちの沈黙 [PG12]
放送日時:2022年2月19日(土)21:00~、25日(金)21:00~
(吹)羊たちの沈黙 [PG12]
放送日時:2022年2月25日(金)12:30~
ハンニバル(2001) [R-15]
放送日時:2022年2月8日(火)16:15~、19日(土)23:15~
ハンニバル・ライジング [R-15]
放送日時:2022年2月8日(火)18:45~、19日(土)18:30~
チャンネル:ザ・シネマ
※放送スケジュールは変更になる場合があります
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